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だいぼさつとうげ

大菩薩峠

中里 介山

33 不破の関の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 86,467 字 · 168 页

青空文庫

「お雪ちゃん、ちょっとお待ち下さい、誰か人が来るようですから」

そこで、お雪ちゃんが、はじめて長いお喋りの腰を折られました。

「え」

と言って、四方を見廻すには見廻したけれども、ここは長堤十里見通し、その一目見た印象では、誰も土手の前後と上下を通じて、人の近づいて来るような気配はありません。人の気配には気がつかなかったのですが、お雪ちゃんが、そのとき愕然として驚いたのは、直ぐ眼の前の宮川の岸辺に漂うた破れた屋形船であります。

ああ、思い出が無いとは言わせない、この屋形船――あの大火災の時の避難以来。

それと同時に眼を移すと、遥かに続く蘆葦茅草の奥に黒い塚がある。

あ、イヤなおばさん――お雪ちゃんの面の色が変りました。

「たれか人が来ますねえ」

それに拘らず、弁信は、長堤十里見通しの利くところで、人の臭いの近いことを主張してやみません。

その途端のこと――思い出の屋形船の一方の腐った簾がザワついたかと見ると、それが危なっかしく内から掻き上げられると、ひょっこりと一つの人間の面が現われました。その思いがけない人間の面の現出が、お雪ちゃんを驚かすと同じように、先方の面の持主をも驚かしたと見えて、現わすや否やその面を引込めてしまいました。