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てんま

天馬

金 史良

「文芸春秋」1940(昭和15)年6月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,407 字 · 70 页

青空文庫

けれどどうしてもそのことが気にかかってならないので、「……多分大村君じゃないでしょうね、そうですよ、きっとそうですよ」と何度も独りで強く肯いてみせた。

それから急に首を突き出し、手では奥のロビーの方を指しながら、

「一寸ソファーを借りますぜ」

と云うとくるり背を向けた。そしてロビーは人を待つのに役立つことを、自分はこんなによく知っているぞといわぬばかりの様子で、肩を揺りつつゆっくりとロビーの方へ向って進んだ。そう云えば彼の小説にはいつも、ホテルやロビーとか、ダンスホール、サロン、貴族夫人、黒ん坊運転手といったようなものがどっさり登場していた。ところで彼は何を思い出したのか、つと立ち止ったと思うと、振り返ってから叫んだのである。

「田中君が帰ったら一つ頼みますぜ。へ、僕は眠いんですよ」

二

広々としたロビーのソファーに横になって鼾の音も高く、優に四五時間も心ゆくままに眠りをとった玄竜は、洋服の埃を打ち払いつつぼそぼそ起き上った。ロビーの中はもう薄暗くがらんどうである。両手を拡げてゆっくりと伸びをしながら何度もあくびをやった。すると急に彼は空腹を感ずるばかりでなく、中々田中が帰りそうもないので、一応出て行こうと思って寝呆けた顔を突き出し帳場の方を窺ってみた。