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おうしゅうにおけるみたちふじわらし

奥州における御館藤原氏

喜田 貞吉

「民族と歴史 第七巻第六号」1922(大正11)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,211 字 · 34 页

青空文庫

平家、西海に没落した後に至っても、彼は義仲とともに頼朝を夾撃すべきの院宣をまで帯しているのである。これに向う頼朝は勢い朝敵の地位に立たなければならんのである。頼朝たるもの、あにこれを坐視することが出来よう。彼はすでに寿永元年四月において、文覚上人を高雄より請して相模の江の島に大弁才天を勧請し、三七日間の断食の荒行をまで修せしめて、秀衡調伏の祈願を籠めしめたのであった。彼が多年征夷大将軍の補任を希望したのも、実に秀衡征討の名分を正さんことを欲したがためであったことは、上文すでに述べた通りである。

しかるに後白河法皇は、その御在世中ついにこれを許し給わなんだ。これは法皇が藤原氏をして鎌倉の勢力を牽制せしめ給わんとの御下心と、一つにはその豊富なる砂金その他の物資の貢献に望みを絶ち給わざりしこととに由るものと察せらるる由は、またすでにこれを述べた通りで、事実法皇は最後までも奥州の砂金の貢献を促し給うたのであった。文治五年三月、秀衡すでに死して子泰衡家を継ぎ、当時朝敵と見做されたる義経を隠慝扶持せるの罪によって、まさに鎌倉の討伐を受けんとする際になってまでも、法皇はなお書を鎌倉に下して、これを催促せしめ給うたのであった。