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こをうばう
子を奪う
豊島 与志雄
「中央公論」1921(大正10)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,292 字 · 80 页
お敏は立っていって、お客様だからと断ってるようでした。そしてまた座に戻ると、ふいに、ほんとうにふいに、奥様済みませんと詑びるのです。何で詑びるのか私には分りませんでしたが、ただ、いいえ私の方が余り突然だったものですから、と云ってやりました。それですっかりよくなりました。落付いてゆっくり話をすることが出来ました。私達の気持ちは、向うにもよく分ったようです。四五日考えさして欲しいと云っていましたが、大丈夫承知しますでしょう。」
そういう話を聞きながら彼は、話の内容には余り気も止めずに、敏子――昔のとし――と依子との生活を想像に浮べていた。あの時別れて以来、彼は二人に逢ったことがなかった。厳格な父の怒りに觸れて以来、彼の耳には二人の消息は更に達しなかった。ただ何かの折に、二人が三田に住んでることを一寸耳にしたので、入り組んだ小路をやたらに彷徨したことがあった。然し敏子らしい姿は一度も見かけなかった。そして疲憊しつくした彼の眼には、慶応義塾の美しい図書館の姿が、暮れ悩んだ空を景色にして、くっきりと残ったのみであった。それから、彼は凡てを過去に埋める気で忘れるともなく忘れていった。