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こをうばう

子を奪う

豊島 与志雄

「中央公論」1921(大正10)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,292 字 · 80 页

青空文庫

湿気を含んだ冷かな微風が低地から匐い上ってきた。朽葉の匂いにほのかな甘酸い匂いが交っていた。細かなものがはらはらと落ちてくるような気配に、ふと顔を上げて見ると、欝蒼たる木立の梢に鮮かな新録が仄見えていた。都会のどよめきが遠く伝わってくる……。彼は何物にとなくぼんやり耳を傾けて、自分自身を忘れたような心地になった。寂寞の境地に人を避けて、子供のことを心の奥に想っている、こういう自分の姿が、昔……遠い昔にも、あったような気がした。それは自分ではない、父でも祖父でもない。それでもやはり自分なのである。そして、子供のことを考えるのは、遠い祖先のことを考えるのと同じだった。一種神秘な血の繋りだ!……彼は涙ぐましい心地になって、膝頭の上に頭をかかえていた。

晴れやかな笑い声に、彼は喫驚して飛び上った。四五人の女学生が彼の後ろを通っていった。彼はぼんやりつっ立っていたが、彼女等の後姿を見送ると、自分の来るべき場所ではなかったような、外国人といったような、淋しい心持ちになった。やはり家に帰ろう、そう彼は自ら云った。

彼が家に歸ったのは四時過ぎだった。玄関に並べられてる下駄で、敏子がまだ居ることを知った。