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ちいさなできごと

小さな出来事

寺田 寅彦

「中央公論」1920(大正9)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,533 字 · 29 页

青空文庫

しかし私が彼の帰って行く後姿を見た時に突然閃いた感傷的な心持の中には、後から考えるとかなり色々なものが含まれていたようである。例えば自分があの乞食であって門から門へと貰って歩くとする。どこの玄関や勝手口でも疑いと軽侮の眼で睨まれ追われる。その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはしないだろうか。少なくともこの時のこの男はそんな心持がしたのではないかという気がする。彼の顔の表情には私がこれまで見たあらゆる乞食に見られない柔らかく温かいある物があった。

彼はそれきり来ない。もう一度来ないかしらとも思うが、やはりもう来てくれない方がいい。

三 簑虫

八月のある日、空は鼠色に曇って雨気を帯びた風の涼しい昼過ぎであった。私は二階の机に凭れてK君に端書を書いていた。端書の面の五分の四くらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、しばらくぼんやり、縁側の手欄越しに庭の楓樹の梢を眺めていた。