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じょうしき

常識

豊島 与志雄

「改造」1934(昭和9)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,237 字 · 33 页

青空文庫

だから、あなたと知りあって、不覊奔放な気分から、ああした間柄になったのも、別に大した意味はない。あなたにとって私は単に享楽の道具にすぎなかったし、私にとってもあなたは単に享楽の道具にすぎなかった。いつからそうなったか、その最初の日附さえ私たちは覚えていない。最初の日附を覚えていないとは、ちょっと心細い、と云って私が苦笑すると、あなたも苦笑した。だが朗かな苦笑だった。

それが、鎌倉山のあの時からちがってきた。海を眺め、空を仰ぎ、富士山を見やり、路傍の秋草を見い見い、恋人どうしのように……全く恋人どうしのように、言葉少い漫歩の後、片瀬から大船へぬける道に出る三辻の、あの家で、夜までゆっくりくつろいだ時、単なる遊びは生活力を萎微させる以外の役には立たない、ということを私が説きだすと、あなたはふいに――意外にも――泣きだしてしまった。なぜあなたは泣いたのか。それはあなたの本心ではあったろう。だが、本心というものは、前後の見境もなくさらけだすべきものではない。私はあなたのその涙に誘惑された。

硝子張りの明るい湯殿で、のんびりと湯に浸りながら、暮れかけてる空を眺めた。