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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

淋しかった。冷たくなった心のやり場に迷って、秋の方へ屈み込んだ。

「僕が悪かったよ。もういいじゃないか。」

彼女は啜り泣いていた、と思ったのは誤りで、肩で息を喘いでるのだった。その肩に彼の手が触ると、彼女はつんと身を反らせた。

「構わないで下さい!」

彼が何と云っても、彼女の機嫌は直らなかった。機嫌が直ると、上から見下したような調子でくり返した。

「あなたは父親になる資格はありません。」

彼は何とも返辞をしなかった。それに構わず彼女は、またぼんやりと考え込んだ。

偶像を抱いてるのだ!

偶像崇拝者の排他的な執拗さが、彼女の態度のうちに現われていた。凡ての仕事を打捨てて、ただ胎児のことばかりに専心していた。散歩の帰りに彼の袂に縋ることがあっても、それは昔のような心からではなく、転んで胎内に激動を与えないためであることを、彼ははっきり感じた。背の低い足の早い小鳥のような彼女は消え失せて、大きな腹でどっしりと落着いて上目がちにあたりを見廻す彼女となっていた。

日に日に可愛い秋子が何物かに奪われてゆくのを、順造はどうすることも出来なかった。而も彼女を奪ってゆくその偶像は、固より胎児ではあったけれども、単にそればかりではなく、何だか陰惨な得体の知れない大きな力だった。