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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

あなたは後悔していらっしゃいますね!

然し口ではそう云わなかった。

「どうなさいましたの?」

彼は何とも答えないで、室の中をのっそり――と意識した歩調で歩き廻った。

「坊ちゃまが……。」

彼女が声を低めてるのが可笑しかった。眼を覚したって構うものかという気がした。わざとその枕頭を力足で歩いてやった。

順一は眼を覚して泣き出した。竜子は慌てて乳を含ました。

「むりに寝かしつけようとばかりしないで、少し抱いておやりよ。」

彼女は黙って、順一が眠るまで待った。それから彼の方へ向き直ってきた。

「私を憎んでいらっしゃるんでしょう。それなら、私出て行きます。」

「出て行けと誰が云った!」

理不尽な言葉を浴せかけてやったが、彼女は反抗して来なかった。下を向いたまま、髪の毛一筋揺がさないで、じっと坐っていた。

鎗で突いても突き通せない、じいわりとした而も深い根を張った、重々しい容積という感じだった。彼が其処を立去っても、もう見向きもしなかった。

彼は一人で苛ら立った。

夜遅く眼を覚すような時には、心が冷たく慴えきって、何となくあたりが見廻された。誰も居なかった。八畳の室ががらんとしていて、孤独な自分の姿をぽつりと浮び上らせた。