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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

毎日牛乳を二合は是非とも飲ませた。力のいる仕事は皆女中にやらせた。

何のためか、彼は自分でも分らなかった。

二人で差向っていると、彼は知らず識らず竜子の腹部に眼をつけていた。

「まだ大きくなりはしませんですよ。」

彼女は笑った。がその笑いは、中途でぴたりと止んだ。

「なぜそんなにお腹ばかり気にしていらっしゃいますの。」

「お前は恐ろしくはないのか。」

「え? なにが?」

何がだか、彼にもはっきりとは分らなかったが、大きく膨れ上った腹の幻が、それは妊娠の腹でも腹膜炎の腹でもなく、ただ怪しく張り切ってる太鼓腹が、頭の底に浮び上ってきた。

「大丈夫でございますよ。」

竜子はややあって平然と答えた。そして太い臀を少し横坐りにどっしりと構えて、力一杯に押しても小揺ぎだにしそうになかった。

勝手にするがいいや!

一人で、何物かに無性にぶつかってゆきたい気持で、順造は家の中をあちらこちら歩き廻った。その歩みの拍子につれて、いろんな考えがひょいひょいと浮んできた。――俺は一体竜子をどうしようというのか、俺の子を腹に宿してる竜子を。結婚しようというのか、別れようというのか、このままの関係を続けてゆこうというのか。