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おもいでぐさ

思い出草

寺田 寅彦

「東炎」1934(昭和9)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 2,006 字 · 5 页

青空文庫

それでもし虻が花の蕊の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。こんなことは右の句の鑑賞にはたいした関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである。

三

漱石先生の熊本時代のことである。ある日先生の宅で当時高等学校生徒であった自分と先生と二人だけで戯れに十分十句というものを試みたことがあった。ずいぶん奇抜な句が飛び出して愉快であったが、そのときの先生の句に「つまずくや富士を向こうに蕎麦の花」というのがあったことを思い出す。いかにも十分十句のスピードの余勢を示した句で当時も笑ったが今思い出してもおかしくおもしろい。しかしこんな句にもどこか先生の頭の働き方の特徴を示すようなものがあるのである。たぶんやはりその時の句に、「駝呼んでつくばい据えぬ梅の花」というのがあった。