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おんじん
恩人
豊島 与志雄
「帝国文学」1914(大正3)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,268 字 · 27 页
彼は叔父がよくたえ子の奏でるのを喜んできいたことを思い出した。それでこう云った。
「あちらへお出でになりませんか。」
「そうだね。」と云って叔父は一寸躊躇した。
それは丁度たえ子と葉子と二人でピアノの側に立ち乍ら何やら笑い興じている所であった。二人共喫驚したように眼を見開いて彼等を見守った。
「叔父さんのために何か弾いてごらん。」と彼は妻に云った。
「もうすっかり忘れてしまったんですもの。」
「うそよ!」と葉子が云った。「弾かないって法はないわ。」
それで皆笑ってしまった。そしてたえ子は指を鍵盤に置いた。彼女は特にベエトオヴェンのソナタ第二部のうちから天真なものを選んだ。
彼は始め彼女の側からかすかに見える白い指先の走るのを見守った。それから静かなる旋律のうちにひたすらに身を浸さんとした。然し彼は知らず識らずに叔父の方へ注意を引かれた。叔父は彼女の肩のあたりを見守っていたが、それから視線を移してじっと上眼に壁の中間に懸っている風景画に眼をすえた。彼女は何処か急いた調子があった。最も自然に無邪気なるべき諧調のうちに含まれる心を披瀝した宗教的気分が、かすかな指の狂いに乱さるる所が往々にしてあった。