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おんじん

恩人

豊島 与志雄

「帝国文学」1914(大正3)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,268 字 · 27 页

青空文庫

」

「嫂さん、も一つ弾いて頂戴な。」と葉子がせがんだ。

「お前弾いてごらんよ。もう大分お上手になったんだろう。」と彼が云った。

「うそよ。」と葉子は黙ってしまった。

妙な興奮したような沈黙が続いた。何時の間にかついた電燈の淡い光りが、彼等の思いをちぎれちぎれに遠い空間へ運んでいった。

「叔父さん、」と彼が口を開いた。「京都でも度々音楽をお聞きになりますか。」

「いや、第一、機会が少いし、それにわざわざ出かけて行って聞く程の勇気もないからね。」

それから彼等はすぐ夕食の膳についた。叔父は極めて少食であった。

その晩四人で集って、トランプを弄んだり、雑談をしたりして十時近くまで遊んだ。叔父が時々咳をするので、「もうお休みなすったらいいでしょう、」と彼は云った。

「そうだね。」と叔父は低い返事をした。

「叔父さんが一番負けね。」とトランプを片附けていた葉子が残りおしそうにして云った。

叔父が立って行った時、「見ておあげよ。」と彼は妻に云って、それから縁側に出てみた。

庭の樹影がかさかさと揺いだので後は耳を澄すと、あたりが寂然と静まり返った。その沈黙のうちに、何かが物影からじっと彼の方へ窺い寄ろうとしているのを感じた。