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おんじん
恩人
豊島 与志雄
「帝国文学」1914(大正3)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,268 字 · 27 页
それで顔を上げると、叔父さんは窓越しに外の方を見ていらっしたの。だから私、おやすみなさいませと云って出て来ました。でも……私何だか妙な気がしましたの。」
「それっきり?」
「ええ。」
悲愴な震動が彼の心に伝わった。意味の分らないヴェールがふわりと下りて来て、その中に自分というものが朧ろ朧ろになってゆくような気がした。そして何か別の透徹したものが彼の頭に入って来た。
「お前は臆病だね。」
「え?」と彼女は顔を上げて彼の眼を見守った。
「そんな時にはそっと額にキスしてあげるものだよ。」
「いやですよ、いやですよ!」
彼は靠れかかってくる妻を両手のうちに強く抱きしめた。それでいい、それでいい、と彼は心の中でくり返した。よし過去に於てたえ子が叔父を愛したと仮定し、そして今告別のキスを与えたとするならば、彼は尚一層悲痛に彼女を愛するであろう。然しそれは長く彼の心にある陰影を投じないであろうか? それでいい! と彼はも一度心に叫んだ。
「嫂さん! 嫂さん。」と向うの室で葉子の呼ぶ声がした。
「行っておいでよ。」と彼は妻の身体を押しのけるようにした。
彼女は夫の顔を今一度仰ぎ見て、それから黙って去った。