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あい

愛

岡本 かの子

「文筆」1938(昭和13)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 1,690 字 · 4 页

青空文庫

戸惑った私の魂はときどきその人の唇とか額とかに向っても打ち当って行くようです。アーク燈に弾ね返される夜の蝉のように私の魂は滑り落ちてはにじむような声で鳴くようです。

私は苦しみに堪え兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中で呟きます。けれどもその人は相変らず身体をしゃんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまま殆ど音の聞えぬ楽器を奏でています。私の魂は最後に、その人の胸元に向って牙を立てます。噛み破ります。

ふと、気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、川に融け合ったようです。川はもう見えません。私自身が川になったのでしょうか。何だか私には逞ましい力が漲り、野のどこへでも好き放題に流れて行けそうです。明るくて強い匂いが衝き上げるような野です。もう私の考えには嫁入り苦労も老先きもないのです。

いま男の誰でもが私に触ったら、じりりと焼け失せて灰になりましょう。そのことを誰でも男たちに知らせたいです。だのにその人は、もとの儘、しずかに楽器を奏でています。ただ今度の私は、大仏の中に入った見物人のように、その人を内側から眺めるだけです。