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あるおんなのしゅき

或る女の手記

豊島 与志雄

「婦人倶楽部」1920(大正9)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,447 字 · 37 页

青空文庫

私はいそいそとした心持ちで、行手に幸福が待ち構えてるような心持ちで、学校から帰ってきて、お寺の前を通りかかると、何の気もなくふと御門の方を覗いてみた。そしてはっと立ち竦んだ。向うの大きな石牌の影から、彼の頭がこちらを見つめていたのである。首から下は見えなかった。首から上だけが、石牌からぬっと差出されて、その顔と頭との全体が、私の方をじっと見つめていた。私は一瞬間、それが彼であることを怪しむと共に、云い知れぬ恐怖に固くなってしまった。が次の瞬間には、その頭がどくろ首のように、すっと石碑から離れると同時に、白い着物の彼の姿にのっかって、其処につっ立っていた。私は心の中で大きな叫び声を立てながら、一生懸命に逃げ出してしまった。

家に帰って自分の室に落付くと、漸く私の心も静まって、先刻の恐怖が馬鹿々々しいようにも思えてきた。けれどもなおよく考えると、彼の素振りの意味が分らなくなるのであった。なぜ秋の頃のように、あの清らかな庭の中に立って、美しい楓の若葉を背景にして――楓の若葉くらい美しいものはない――、穏かな笑顔で私に逢ってはくれなかったのか? なぜ石牌の影に隠れて、首から上だけつき出しながら、恐ろしいほどじっと私を見つめたのか? 私はその時の彼の顔をどうしても思い出せない。