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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

そして私もまた、何かしら心が浮々としてきたのだった。……が、こんなに筆が先へ滑っては仕方がない。

その日の午前十時頃、私が会社の室で、何だか満ち足りない焦燥のうちに茫然としてる時……と云っても、そんな気持はその日に限ったことではなく、もう長い間の私の心の状態となっていたのだが、それは後で云おう。でその日もやはり、落着いたような落着かないような気分に浸って、ぼんやり煙草を吹かしていると、女の人から電話だと給仕が取次いできた。何の気もなく電話口に立つと、それが月岡光子だった。「月岡光子でございます、」と彼女は姓までつけ加えて名のった。彼女の姓が月岡だということは前からよく知ってはいたが、電話で改めて聞かされると、それが私の頭の中で物珍らしく躍ったものだ。

「お目にかかって至急お話申上げたいことがございますが、そちらへお伺いしても宜しゅうございましょうか。」

「さあ……。」と私は口籠りながら、余りの意外さに躊躇したものの、相手の急き込んだ語気からして、何かしら切羽つまった心を感じて、兎も角もお出でなさいと承知してしまった。

彼女が私に逢いに会社の方へやって来るということは、私と彼女とのこれまでの関係からすれば、全く調子外れのものだった。