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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

そして自身のことと彼女のこととが、頭の中に渦を巻いた。私は幾度も時計を眺めた。十一時近くまで彼女は帰って来なかった。

表に俥が止った時、私は物に慴えたように立竦んだ。それから机の前に坐って、書物を一冊披いて読み耽ってる風を装った。俥屋の声や、女中の声や、戸締りをする音や、茶の間で何かかたかたやる音などが、相次いで聞えてきたが、やがてしいんと静まり返った。私は苛ら苛らしてきた。そして十分ばかりたつと、梯子段を鈍い足音が上ってきた。

俊子は半ゴートだけをぬいだ外出着のままで、静かに室へはいって来て、火鉢の向うに坐ってから、改まった調子で云った。

「只今。河野さんの家へ行って参りました。」

その全体の様子から私はただならぬものを感じて、一寸口が利けないでいると、彼女は急にはらはらと涙をこぼして、それからまた立上って出て行こうとした。

「俊子!」と私は呼び止めた。

振向いた彼女の顔は、ぞーっとするほど冷たく凝り固まっていた。

「どうしたんだい?」と私は強いて尋ねた。

彼女は一寸考えてから、また火鉢の向うに戻ってきて坐った。そして燃えるような眼付を私に見据えながら、震える声で云い出した。