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あるあきのむらさきしきぶ

或る秋の紫式部

岡本 かの子

「むらさき」1935(昭和10)年11月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,007 字 · 11 页

青空文庫

それそれ、聖さまがむずむず身体を動かし始めなされました。そら、始まりますですよ。奥様、お早くいらっしゃい」

式部「どれ」

(二人は縁先へ身体を乗出して聴く)

聖「筏を漕ぐ、浪の音が聞える……あれは聖衆の乗らるる迎えの舟だ。五濁深重の此岸を捨てて常楽我浄の彼岸へ渡りの舟。櫂を操る十六大士のお姿も、追々はっきり見えて来た。あな尊とや観世音菩薩、忝けなや勢至菩薩。筏の舳に立って、早や招いていらるるぞ。やっしっし、やっしっし、それ筏は着くぞ。あの妙なる響は極楽鳥の鳴き声じゃな。得ならぬ香りはおん浄土の蓮の花を吹き開く風の訪れだ。それもう聖衆方、ひと漕ぎでござりまするぞ……こちらへ着きまするか、はいはい。支度は出来とります……はいはい、……これはいかなこと、もう一櫂、掻き下されと申すに。したら着きまする。のうのう、それじゃ、こちらへ寄りはしまいで、沖へ遠のきますと申すに。はてさて、意地の悪い菩薩方じゃ。だんだん筏は離れてしまいまする。ええ、それでは人焦らしに漕いで来られたようなものじゃ……おーいおーい、その舟、その筏、影はだんだん薄れて行く。もうすっかり見えなくなった。