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りゃくだつせられたるおとこ

掠奪せられたる男

豊島 与志雄

「新潮 第二十九卷第三號」新潮社、1918(大正7)年9月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 23,398 字 · 48 页

青空文庫

そしてその指先がふと、水月のような耳垂を挾んだ時、山田ははっと胸に大きな衝動を感じた。彼の眼は貪るように其処に釘付にせられてしまった。と秀子はにこっと微笑んだ。然し其処には他の客が居たので、彼女は何とも云わなかった。

山田にとっては、もはや秀子を眺むる視点はその顔と唇とではなかった。今はその指先と耳朶とであった。

一人で街路を歩き廻る時なんか、彼女の指と耳朶とが眼先にちらついて離れないことが四五分も続くようになった。そして下宿の室に一人机に向っても、もう書物を披くだけの力も無くなっていた。自分のうちのものが次第に秀子のうちに移動してゆくような気がした。否もうその大部分は移ってしまっていた。彼は、ふと思い出して、トルストイの小話を頭の中に思い起そうとした。然し何にも的確な観念は浮んで来なかった。そして眼の前にはかの乞食の姿が浮んでき、耳には秀子の云った言葉が響いて来た。彼は其処に身を投げ出して、ぼんやり天井の節穴を見つめていた。そしてしめやかな夕暮、心を落ち付かせながらまた爽かに心を唆る薄暮の一瞬の静けさ、それももう彼は一人で味わうことが出来なかった。