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しんぱん ほうろうき
新版 放浪記
林 芙美子
「女人藝術」1928(昭和3)年10月号~1930(昭和5)年10月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 247,330 字 · 497 页
只、それきりの生き方。何の違いが、一瞬の宮様にあるのだろう……。宮様は涼しい汽車で本を読んでいる。私は暑い部屋の中で、チエホフの退屈な話を読んでいるだけだ。
本箱の中に、古い私のノートあり。学生の頃の日記。大した事もなし。エルテルにのぼせあがっている感想。伊藤白蓮のかけおちをノラの如しと書いている。
当分はこのままで必死に小説を書いてみようと思う。
夕方より雨。母が、油紙を頭からかぶって戻って来る。手籠に、いちじくのはじけたのを土産に買って来てくれる。尾道では、いちじくの事をとうがきと云うなり。
義父帰らず。
母は警察へあげられたのではないかと心配している。雨で涼しいのでノートに少しばかり小説めいたものを書きつけてみるけれども、すぐ厭になってしまう。大した事もないのだ。伊勢物語読了。
ものを書いて暮すなぞと云う事はあきらめる方がいい。どうにもものにはならぬ。作曲家が耳のないのを忘れていて、音色を空想するだけ……。孤独に流されているだけでは、一字も言葉は生れて来ない。海辺の町へ戻って、まだ私は海を見ない。
夜更けて義父が戻って来た。
クレップシャツの上に毛糸の腹巻きをしている風采がどうもいやらしい。