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はるふかく
春深く
久保田 万太郎
「都新聞」1924(大正13)年5月2、3、6、7日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 3,257 字 · 7 页
汽車の中でよむ二、三冊の本と、原稿用紙と、万年筆と、外に一つ二つの手廻りのものと、荷物といってはそれだけだった。籠一つでことは足りた。――それを下げて四月の末の曇った午後、わたしはぼんやり一人で上野を立った。高崎で乗りかえて、五時ごろ、磯部へ着いた。
そこで下りたのはわたしだけだった。――切符をわたして思った以上に小さい、人けのないガランとした停車場の構内を出ると、繁り切った桜の嫩葉の、雨を含んだ陰鬱な匂がしずかにわたしに迫った。――あたりはもう灯火のほしいほどに暮れかけていた。
「鳳来館まで。」
二、三人、わたしをみてそばへ寄って来た車夫の一人にわたしはいった。
鳳来館がどういううちだかということをわたしは全く知らなかった。――ただ、磯部で、最も古く最も大きい宿屋だということを汽車の中で聞いただけだった。――それも直接に聞いたのではなく、大宮から乗って来た二人づれの老人の、そのあたりのことを互にいろいろ話合うのを、ゆくりなく、側で、聞いただけだった。
だから、みるまで、蓬莱館と書くのだとばかりわたしは思っていた。――鳳来館だとは夢さら思わなかった。