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ばんきく

晩菊

林 芙美子

「別冊文藝春秋」文藝春秋、1948(昭和23)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 15,998 字 · 32 页

青空文庫

息を殺してひっそりと静まり返った家と云うものを不安に思わないでもない。きんは、朝から晩までラジオをかける事を忘れなかった。きんはその頃、千葉の松戸で花壇をつくっている男と知りあっていた。熱海の別荘を買った人の弟だとかで、戦争中はハノイで貿易の商社を起していたのだけれども、終戦後引揚げて来て、兄の資本で松戸で花の栽培を始めた。年はまだ四十歳そこそこであったが、頭髪がつるりと禿げて、年よりは老けてみえた。板谷清次と云った。二三度家の事できんを尋ねて来たけれども、板谷は何時の間にかきんの処へ週に一度は尋ねて来るようになっていた。板谷が来始めてから、きんの家は美しい花々の土産で賑わった。――今日もカスタニアンと云う黄いろい薔薇がざくりと床の間の花瓶に差されている。銀杏の葉、すこし零れてなつかしき、薔薇の園生の霜じめりかな。黄いろい薔薇は年増ざかりの美しさを思わせた。誰かの歌にある。霜じめりした朝の薔薇の匂いが、つうんときんの胸に思い出を誘う。田部から電話がかかってみると、板谷よりも、きんは若い田部の方に惹かれている事を悟る。広島では辛かったけれども、あの頃の田部は軍人であったし、あの荒々しい若さも今になれば無理もなかった事だとつまされて嬉しい思い出である。