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ばんきく

晩菊

林 芙美子

「別冊文藝春秋」文藝春秋、1948(昭和23)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 15,998 字 · 32 页

青空文庫

――田部からの電話はきんにとっては思いがけなかったし、上等の葡萄酒にでもお眼にかかったような気がした。田部は、思い出に吊られて来るだけだ。昔のなごりが少しは残っているであろうかと云った感傷で、恋の焼跡を吟味しに来るようなものなのだ。草茫々の瓦礫の跡に立って、只、ああと溜息だけをつかせてはならないのだ。年齢や環境に聊さかの貧しさもあってはならないのだ。慎み深い表情が何よりであり、雰囲気は二人でしみじみと没頭出来るようなただよいでなくてはならない。自分の女は相変らず美しい女だったと云う後味のなごりを忘れさせてはならないのだ。きんはとどこおりなく身支度が済むと、鏡の前に立って自分の舞台姿をたしかめる。万事抜かりはないかと……。茶の間へ行くと、もう、夕食の膳が出ている。薄い味噌汁と、塩昆布に麦飯を女中と差し向いで食べると、あとは卵を破って黄身をぐっと飲んでおく。きんは男が尋ねて来ても、昔から自分の方で食事を出すと云うことはあまりしなかった。こまごまと茶餉台をつくって、手料理なんですよと並べたてて男に愛らしい女と思われたいなぞとは露ほども考えないのである。