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くらがりのおとまつ

暗がりの乙松

山本 周五郎

「キング」大日本雄辯會講談社、1936(昭和11)年9月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,992 字 · 25 页

青空文庫

一

一

居合腰になってすーと障子を明ける、そのまましばらく屋内のようすを聞きすましてから、そっと廊下へ忍び出た。とたんに、

※(歌記号、1-3-28)きりぎりす

袖も袂も濡れ縁に

隣の部屋から、さびた良い声で唄いだすのが聞えてきた。

「――またか!」

野火の三次は舌打をして居竦まった。

ここは伊豆の修善寺、佐原屋という湯治宿の二階だ。まだ駈け出しの小盗人野火の三次は、江戸の仕事に足がついて、どうやら体が危くなってきたから、二三年旅をかけて腕を磨こうと、草鞋をはいて入って来たのがこの湯治場であった。――この宿へ着いて十日め、早くもみかけためどが二つ。その一つは三日まえにこの佐原屋の二階の離室へ泊りこんだ客の、ずしりと重い懐中である、旅へ出ての手始め、三次は気負ってこいつを狙った。

ところがここに妙なことが起った。というのは、宿の寝鎮まるのを待って、三次が自分の部屋をぬけ出すとたんに、隣の部屋で端唄を唄いだす者がある――それがまた不思議に三次の胆へびんと響いて、どうにも足が竦んでしまうのだ。今夜もこれで二度目になる、

「畜生」

三次は口惜しそうに呟いた、「高の知れた端唄ぐれえが、なんでこんなに胆へ耐えるんだか、ぜんてえ訳が分らねえ……」