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みらいのてんさい

未来の天才

豊島 与志雄

「人間 第三卷七月號」人間社出版部、1921(大正10)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,630 字 · 38 页

青空文庫

然し、静子の居ないことが、私のすぐ側に居ないことが、急に切なく感ぜられて来た。何もかもつまらないような気がしてきた。身を動かすのも口を利くのも億劫だった。私は寝転んで障子の硝子から明るい空を仰ぎながら、河野を前にして静子のことのみを思い耽った。あの柔い肩の感触が私の掌に胸に蘇ってきた。

「おい、何をぼんやりしてるんだい。」と河野はつまらなそうに云った。

私はただ「うむ。」と答えたきり、黙ってしまった。何物でもいいから力一杯に抱きしめたかった。河野を見ると、やたらに煙草をすぱすぱ吹かしていた。厚い唇をして額に薄黒い曇りがあった。何だか穢ならしい気がした。そう思うと、室の中の空気までが息苦しいように思えた。私は立ち上って障子を一杯開いた。冷かな大気が私の身を包んだ。私は大きく息をしてまた夢想に耽った。

夕方、客膳が運ばれて来たけれども、私は箸を取る気になれなかった。漸く一杯だけ食べた。

電燈の光りの下で、河野はまじまじと私の顔を見守った。

「どうするんだい。」と彼は云った。

どうしたらいいか私にも分らなかった。気分がすっかり白けてしまった。ただ静子さえあれば、その父も指輪も肖像も、どうでもいいような気がした。