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まつばやしへんや

松林蝙也

山本 周五郎

「キング」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,092 字 · 25 页

青空文庫

町はいつもの冷やかな調子で頭を振った。

「ではどうしたのだ、体の具合でも悪いなら遠慮なく云うがよい」

「べつにそんな訳ではございませぬ」

「なんだ、おかしなやつだな」

町は自分でも分らない気持に悩まされていた。蝙也が客間で婦人たちと楽しげに談笑しているのを聞くうちに、ゆえもなく急に悲しくなって、おかしいほどぽろぽろと涙がこぼれてきた。

――なにがこんなに悲しいのだろう。

自分でも初めてのことなので、町はその悲しみをよく考えてみた。すると蝙也が憎くてならないのだということに気付いた。

自分が卑しい側女などになったのも、蝙也という男がいたからである、――世に優れた良人の妻として、正しい女の道を生きよう、そう考え憧憬れていた乙女の夢を、無慙に蹂躪ったのは蝙也である。そう考えた。けれどそれには多少の疑問があった、というのは、町がこの家へ来てこのかた、蝙也は一度も彼女を寝間へ入れたことがない。態度にも言葉にも、かつて猥りがましいところを見せた例がないのだ、では気に入らないかというとそうではなく、絶えずふんわりと温い愛情で労わってくれている。

――でもそんな、どっちつかずの愛情が何になろう、あたしはもう卑しい側女なのだ、あたしの一生が亡びたように、いっそあたしの体をも……。