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もりのようき

森の妖姫

小川 未明

「趣味」1906(明治39)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 2,457 字 · 5 页

青空文庫

道行く旅人、野に分け入る百姓等は相戒めて、決して琵琶池の辺りに近かないという。

もはや春もくれて、雲白き南信濃路に夏の眺めを賞せんものと、青年画家の一人は画筆を携えて、この深山路に迷いに迷い入った。緑滴るばかりの森影に、この妖姫の住める美しの池は漣を立てて、寂として声なき自然の万象をこの鏡中に映じている。青年は池の畔りに腰を下して、名もなき花の、咲き満つる、青草の上にカンバスを構えた。

都を立出でて、既に六十日、今や盛夏を告げ顔なる、蝉や、蜩の声などが聞える。それにしてもこの艶々しい池の畔の草木の緑葉の眺めかな。赤々として熱そうな、日入の影が彼方の松林に照りつけると、蜩の声は深山の渓間で鳴くのである。もはや帰るべき時は来った。

やおら青年は起ち上らんとする時、悲しき、嬉しき歌の声は杜の彼方に聞える。彼は耳を澄まして、眤と彼方を見詰めた。空色の衣物に緋の袴を着て、房々とした黒髪を垂れたる美女は梢の繁みを払って、我が方を差し覗いているように思われる。はっとして青年は心臓の血潮を躍らすと、もはやその姿は歌と共に消え失せてしまった。

次の日も青年は、写生に出掛けた。