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くすのきのはなし

楠の話

豊島 与志雄

「文章世界 第拾四卷第四號」博文堂、1919(大正8)年4月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,820 字 · 22 页

青空文庫

私はそれから何度も其処に行って空を見上げた。

少し加減のいい日、父も母と私とに連れられて楠の無くなった跡を見舞った。そして父が一番に驚いたらしいのはやはりその広い空だった。(父がまだ生きていたら、私は今そのことをはっきりとどんなに尋ねてみたいことか。)なぜなら、父はその時、淋しくはあったが本当に清らかな笑みを顔に浮べたから。

其後、楠の跡の穴は埋められ、地面は平にされて、元の所に稲荷堂が据えられた。その上、円木の赤い鳥居が一つ建てられ、また小さい楠が一本稲荷堂の横に植えられた。そして終生夢想家であった父は、恐らくそれについては満足して死んだであろう。

然し今その所の幻を思い浮べてみると、私の心には三つのものがまざまざと感ぜられる。一つは、あの日見た父の荘厳な姿である。も一つは、あの日見た見知らぬ人々の群である。また他の一つは、楠の倒れた後に突然開かれた広い朗かな青空である。この青空に対する気持ちを、私は到底言葉で云いつくすことが出来ない。