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かいすいよく

海水浴

寺田 寅彦

「文芸春秋 第十三年第八号」1935(昭和10)年8月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,721 字 · 10 页

青空文庫

溺死者の屍体が二、三日もたって上がると、からだ中に黄螺が附いて喰い散らしていて眼もあてられないという話を聞いて怖気をふるったことであった。

海水着などというものはもちろんなかった。男子はアダム以前の丸裸、婦人は浴衣の紐帯であったと思う。海岸に売店一つなく、太平洋の真中から吹いて来る無垢の潮風がいきなり松林に吹き込んでこぼれ落ちる針葉の雨に山蟻を驚かせていた。

明治三十五年の夏の末頃逗子鎌倉へ遊びに行ったときのスケッチブックが今手許に残っている。いろいろないたずら書きの中に『明星』ばりの幼稚な感傷的な歌がいくつか並んでいる。こういう歌はもう二度と作れそうもない。当時二十五歳大学の三年生になったばかりの自分であったのである。

たしかその時のことである。江の島の金亀楼で一晩泊った。島中を歩き廻って宿へ帰ったら番頭がやって来て何か事々しく言訳をする。よく聞いてみると、当時高名であった強盗犯人山辺音槌とかいう男が江の島へ来ているという情報があったので警官がやって来て宿泊人を一々見て歩き留守中の客の荷物を調べたりしたというのである。強盗犯人の嫌疑候補者の仲間入りをしたのは前後にこの一度限りであった。