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かいすいよく

海水浴

寺田 寅彦

「文芸春秋 第十三年第八号」1935(昭和10)年8月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,721 字 · 10 页

青空文庫

「藤沢江の島間電車九月一日開通、衝突脱線等あり、負傷者数名を出す」という文句の脇に「藤沢停車場前角若松の二階より」とした実に下手な鉛筆のスケッチがある。

逗子養神亭から見た向う岸の低い木柵に凭れている若い女の後姿のスケッチがある。鍔広の藁帽を阿弥陀に冠ってあちら向いて左の手で欄の横木を押さえている。矢絣らしい着物に扱帯を巻いた端を後ろに垂らしている、その帯だけを赤鉛筆で塗ってある。そうした、今から見れば古典的な姿が当時の大学生には世にもモダーンなシックなものに見えたのであろう、小杉天外の『魔風恋風』が若い人々の世界を風靡していた時代のことである。

大正の初年頃外房州の海岸へ家族づれで海水浴に出かけたら七月中雨ばかり降って海にはいるような日がほとんどなく、子供の一人が腸を悪くして熱を出したりした。宿の主人は潜水業者であったが、ある日潜水から上がると身体中が痺れて動けなくなったので、それを治すためにもう一遍潜水服を着せて海へ沈めたりしたが、とうとうそれっきりになってしまった。自分等は離屋にいたのでその騒ぎを翌日まで知らなかった。その二、三日前の夜にその主人が話しに来たとき自分も二十余年前の父の真似をして有り合せのベルモットか何かを飲ませたら、この男もやはりこんな酒は始めてだと云って喜んで飲んだ。