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しぶやけのしそ

渋谷家の始祖

宮本 百合子

「中央公論」1920(大正9)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页

青空文庫

渋谷家の始祖

宮本百合子

一

正隆が、愈々(いよいよ)六月に農科大学を卒業して、帰京するという報知を受取った、佐々未亡人の悦びは、殆ど何人の想像をも、許さないほどのものであった。

当時六十歳だった彼女は、正隆からの手紙を読みおわると、まるで愛人の来訪でも知らされた少女のように、ポーッと頬を赧らめて、我知らず黒天鵞絨(ビロード)の座布団から立上った。

立ち上りはしたものの、次の運動を何も予想していなかった未亡人は、皺の深い口元に、羞らうような微笑を漂(うか)べて、そっとまた元の座になおると、後の壁の方へ振向いて、

「しげや、しげや、しげやはいるかい」

と、お気に入りの小間使いを呼びながら、手を鳴らした。彼女は早速、この輝やかしい報知を、親戚中に触れ廻して、雨のような祝辞を浴びたくなって来たのである。

完く、佐々未亡人の正隆に対する愛は、その熱烈さに正比例して、特異なものであった。彼女の、鍾愛を越えて、偏愛に陥ったとさえ思われる愛は、何かの折に親類の者どもが寄るとさわると、一度は欠かさず皆の話題に上るほど、激しいものであったのである。

勿論、それには正隆が末子であるということが、相当の口実にはなっておったろう。