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しぶやけのしそ
渋谷家の始祖
宮本 百合子
「中央公論」1920(大正9)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页
けれども、今、正隆は変になり、信子夫人は、彼に対する愛を失っているのを見ると、彼等の離婚を考えることは、決して彼女にとって、単純な、残念さ、ではなかった。歓びではない。それは勿論である。が、一種の漠然とした、恢復の快感、希望ともいうべきものが、認め得ないほど微かながら、彼女の胸の底の底に、人知れず動いたのである。
若し、信子夫人を失うことが、彼、正隆にとって、取返しのつかない生活の滅亡、愛の破滅だと知ったら、彼のために盲目になり得る未亡人は、逃げようとする女性も、なお引据えて止めたかも知れない。けれども、彼女は、自分の愛に、少くも多大の威力を認めていたことだけは明瞭である。あちらで失われた愛は、この、自分の愛で満されるものであり、その満される愛が、やがて、正隆の生活を取戻すかも知れないことを、思ったのは確である。そこで、未亡人は、信子夫人に対しては、親切に満ち、理解に満ちた姑として、彼女の美と、技倆とを、寛大な自由に解放し得たのである。
それからの懶(ものう)い、単調な十六年間。
恐るべき十六年を、正隆は、何の躊躇もなく母親に見捨てられた正房と共に、母未亡人の陰に隠れて、日の目の差さない人世の裏に、黴のように生え続けた。