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しぶやけのしそ

渋谷家の始祖

宮本 百合子

「中央公論」1920(大正9)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页

青空文庫

けれども、この慾望は、決して快いものではなかった。

傍観する自分の眼前で、その恐ろしい、息を潜めるような瞬間が実現せられたら、目撃者である自分は、どうしたらよいのか。その、ただ刹那の蹉跌が、家庭にどれほどの不幸を齎すか、そしてまた、その総ての悲惨の第一の原因たる機会を、故意に構えてその綱を引いた自分は、どれほどの責任を負わなければならないのか。

それ等のことを思うと、正隆は、裏切者の負わされる重荷を魂に、どっしりと感じずにはいられない。そんなことはないように、そんなことが起らないように――。

然し、それなら、彼女に代って、青年の傍に引添うかといえば、正隆は、矢張り否と首を振らずにはいられないのである。

貞淑に見える、素晴らしい尚子夫人の上に起る、悲しみへの転機を事実として差附けられることは、正隆にとってあまり恐ろしい。けれども、堕天女としての尚子夫人を空想に描く時、正隆の感情は、奇怪な顫動を感ぜずにはいられないのである。

女性の真実を、多く、幾度となく破滅させた瞬間の忘我、その切迫と、予期とに、あの、丸らかな夫人が、胸をときめかすのを見たいのである。