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しぶやけのしそ

渋谷家の始祖

宮本 百合子

「中央公論」1920(大正9)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 68,023 字 · 133 页

青空文庫

「奥さん、何のためにこれを下さるのですか?」

と云った。

思わず眼を瞠って良人と視線を交した夫人は、それでも社交に馴れた笑を忘れずに、

「まあお若い方は、理屈っぽいこと、何でもない、ほんのお口直しか、お口穢しでございますわ」

「そうですか――然し、奥さん、奥さんは、私がこんな作法を知らないことは、始めから御承知なんでしょう。御承知でありながら、何故、私の知らない、知らないから飲めもしないものを、下さるのですか?」

ここまで来ると、さすがの副島夫人も顔の色を変えた。正隆を見た眼を反らして、凝と彼方を見ていた夫人は、暫くすると、殆ど、命令するように、はっきりとした口調で、

「どうも、お気の毒を致しました」

「それでは、失礼でございますが、御免を蒙って、貴方」

夫人は、眉を上げて、駭(おどろ)きと不快で、度を失っている良人を見た。

「お廻し下さいませ」

この夫人の態度が、正隆の言葉に解くことの出来ない封印をしてしまった。

その座敷に戻りはしても、もう瞳も定まらない正隆は、碌な挨拶もしないで、飛び出してしまった。この不意の出来事で、最初、副島氏が漠然と胸に持っていた、保養の勧告は、緒口も出ないで、立ち消えとなったのである。