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げんおじ

源おじ

国木田 独歩

「文芸倶楽部」1897(明治30)年8月10日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,455 字 · 23 页

青空文庫

紀州の寝し後、翁は一人炉の前に坐り、眼を閉じて動かず。炉の火燃えつきんとすれども柴くべず、五十年の永き年月を潮風にのみ晒せし顔には赤き焔の影おぼつかなく漂えり。頬を連いてきらめくものは涙なるかも。屋根を渡る風の音す、門に立てる松の梢を嘯きて過ぎぬ。

翌朝早く起きいでて源叔父は紀州に朝飯たべさせ自分は頭重く口渇きて堪えがたしと水のみ飲みて何も食わざりき。しばししてこの熱を見よと紀州の手取りて我額に触れしめ、すこし風邪ひきしようなりと、ついに床のべてうち臥しぬ。源叔父の疾みて臥するは稀なることなり。

「明日は癒えん、ここに来たれ、物語して聞かすべし」しいてうちえみ、紀州を枕辺に坐らせて、といきつくづくいろいろの物語して聞かしぬ。そなたは鱶ちょう恐ろしき魚見しことなからんなど七ツ八ツの児に語るがごとし。ややありて。

「母親恋しくは思わずや」紀州の顔見つつ問いぬ。この問を紀州の解しかねしようなれば。

「永く我家にいよ、我をそなたの父と思え、――」

なおいい続がんとして苦しげに息す。

「明後日の夜は芝居見に連れゆくべし。外題は阿波十郎兵衛なる由ききぬ。そなたに見せなば親恋しと思う心かならず起こらん、そのときわれを父と思え、そなたの父はわれなり」