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おぼるるもの
溺るるもの
豊島 与志雄
「中央公論」1928(昭和3)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 17,690 字 · 36 页
声をかけると、じろりと見てから、すぐにはいって来た。二階の室に案内して、あたしは何だか、いつもより丁寧に挨拶をした。その人はマントを着たまま坐っていたが、だいぶ酔ってるらしい眼付と顔付とを、面白そうににこにこさして、三四軒寄ってきたが愉快だったと云った。そして五十銭銀貨を二つ出した。お茶代をつけてとあたしが云うと、笑って頭を振った。親切な女がいて、あそばないでお茶だけならそれでいいと教えてくれたって……。そしてその女の名刺を持っていた。知ってる女だった。あたしは名刺をひったくった。それからお茶をくんでくると、その人は急に真面目な顔で、先刻の名刺を返してくれと云った。返すものかとあたしは思った。そんなら眼の前で破いちまえ、というのがあたしの気に入った。名刺を返すと、その人はそれを裂いて火鉢の火にくべた。あたしは胸がさっぱりした。
翌日の昼間、やはりあたしがお店に出てる時、その人が、考えこんだように足先に眼を落して、ゆっくり通りかかった。あたしは声をかけた。その人は立止って、じっとあたしの方を見ていたが、いきなり大きな声で、ああ君か、と云った。そしてはいってきた。