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むち
無知
中谷 宇吉郎
「現代教養講座第二巻 幸福と自由」角川書店、1957(昭和32)年1月10日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,776 字 · 16 页
その例として、比較的罪の浅い話からはいろう。日本の酒席では、盃の献酬という風習がある。この頃の大都会では、さすがにそういう風習はすたりつつあるが、地方へ行くと、まだまだ依然として根強く残っている。中には、酒の嫌いな人に、無理矢理に盃をさして「俺の盃が受けられないのか」などと、からむ連中もある。
盃をさす方は、酒が好きな人にちがいないから、これなどは、己の欲するところを人に施す、一番端的な例である。体質によっては、酒が身体の毒になる人もある。それでこれは、自分が欲することならば、他人に毒薬を無理に飲ましてもよいという風習なのである。その不合理さは、小学校の生徒程度の頭脳で、簡単にわかることである。問題はそういうわかり切ったことが、なぜいつまでも続いているかという点にある。その理由は、結論を先にいえば、無知のしからしめるところである。
無知というのは、小学校の生徒にもわかるくらいの簡単なことがわからない、という意味ではない。酒が身体に悪い人に対して、無理に酒を飲ませてはいけないことくらいは、誰も皆知っている。それにもかかわらず、こういう習慣が依然として幅をきかせているのは、その奥にある本当のことを知らない、あるいは知ろうとしない点にある。