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ちちのおもかげ

父の俤

佐藤 垢石

「釣りの本」改造社、1938(昭和13)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 1,948 字 · 4 页

青空文庫

はじめて釣り竿を持った幼い私に、余裕も手加減もあろうはずがない。当たりと一緒に、激しく竿先を抜きあげると、大きな魚が宙に躍った。私は、夢中になって魚を丘へ振り落としたのである。そして、石の間を跳ね回る魚を双手で押さえつけた。

それは、若鮎ではなかった。腹に一杯卵を持った紅色鮮やかなはやであった。子供の私の眼に一尺以上もある大物に見えたのである。鼓動が鳴った。手がふるえた。

父は、ただ手を拱いて顔も崩れそうに笑っていた。そして、

『逃がすな、逃がすな』と、声援して『よくもまア、こんな細い糸であがったものだ』、こう言葉を続けて感嘆した声が、いまでも私の耳の底に残っている。

私が、生まれてはじめて魚を釣ったのは、この時である。回顧すれば遠い昔だ。四十年前にもなる。

このほども故郷の村へ帰って、崖の上から昔の河原を望んだが、流れを遮る鬼岩は、その頃と変わらぬ安山岩の荒い肌を、激流の面へ現わして、白い飛沫を空に撒いていた。

河原の青い玉石も、松の黒い葉も、杉葉の浅緑も、幾十年の彩を、晩春の陽のなかへ漂わせていた。

だが、優しい父はいない。ただ、遙かに遠い想い出ばかりが残るのである。