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ちち
父
矢田 津世子
「日暦」1935(昭和10)年11月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,168 字 · 38 页
それが母のいた頃からの慣しであった。
「長旅をなさるのに着換えを持っていらっしゃらないと御不自由ではないかしら」
いつものように父の旅支度をしていた母へ紀久子は尋ねてみたことがあった。
「御不自由などころか新潟のお宿ではお父様の肌着から足袋まですっかり用意が出来ているのですからね」
こう云って母はスーツケースから眼をあげて何気ない風に庭をみやったが、気のせいか、そのそばめた眼つきには皮肉めいたものがみえた。
「まるでお家のようね。それじゃお父様御ゆっくりなされるはずですわ」
母の言葉を素直に受けて紀久子が云うと、それまでやわらんでいた母の顔にキリリッと癇の走るのが分り、膝へ重ねた手が妙にそわそわしてきた。そして、何かの用事で廊下を通って行った福を母は高く顔をあげて呼び停めると、「その足袋のはきかたは何んです」と、こはぜが外れて踵の赤い皮膚が少しばかりのぞいているのを指さして甲高く叱りつけた。
福は慌てて廊下へ膝をつき、こはぜをはめると「申訳ございません」と手をついて下った。
いつも静かな母をみているだけに紀久子はこの時の唐突な母の振舞いには愕かされたが、少し経つと妙にもの好きな心が動いてきて偸むように母の顔を何度も見なおした。