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ちち
父
矢田 津世子
「日暦」1935(昭和10)年11月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,168 字 · 38 页
と声をかけてからはっとして思わず紀久子は息をひそめた。父の横に見慣れぬ庇髪の女のひとをみかけたからである。それがひと眼で紀久子には姉にきかされていたおきえさんだと分った。
父は振りむくと、
「わざわざ持って来んでも送ってくれてよかった」と云った。父の眼は紀久子の顔を見ず、どこか肩のへんを見ているようであった。汽車が動き出すのにはまだ一二分の余裕があった。紀久子は直ぐにこの場を去ったものかどうかと思いまどった。一刻も早く去ることの方が父の気もちを救うことになりはしまいか。漠然とそんな気がして足を動かしかけると、胸いっぱいに新聞をひろげて読んでいた父が顔だけをこちらへむけて、
「皈ってもよろしい」と云った。このひと言に思いがけず紀久子の心が反撥した。皈ってやるものか。そして、汽車の窓へ近ぢかと立っておきえさんを眺めはじめた。おきえさんはこちらへうしろをみせていた。紫紺色の半襟で縁どられたぬき衣紋のなめらかな襟足がすぐ眼の前にあった。茶縞のお召に羽織は黒の小紋錦紗に藍のぼかし糸をつかった縫紋の背が品よくみえたが、ふと、その紋が家の麻の葉ぐるまだと気付いて紀久子はこみあげてくる屈辱感からさっと顔色を変えた。