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ねこすてざか

猫捨坂

豊島 与志雄

「新文学」1948(昭和23)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,043 字 · 21 页

青空文庫

その古板に、あの時は三日月の淡い光りがさしていた。あの女とただ一度のキスをした晩のことだ。

屋台店でアルコール焼酎を飲んで、少しく酔って、帰りかけると、電車から降りてきた彼女に逢った。映画を見に行った帰りだというようなことから、話をするともなく、連れ立つともなく、いっしょに歩いた。果物類の雑貨を商ってる店の娘だ。実の娘ではなく、田舎の親戚から手伝いに来てる者で、年はだいぶ取ってるらしい。

女の方から先に立って、事もなげに猫捨坂へ向うのである。二人だから怖くないと思ってるのであろうか。俺の方は勿論怖くなんかない。風のある温い晩だった。

坂の敷石は、二人並んでは歩けない。女は先に立って下り始めた。足元が薄暗くて危なっかしい。大した風でもないが、椎の木の茂みにさーっと音を立てる。

坂の中途まで行った時、坂下の先方で犬が吠えた。その声はまもなく止んだ。女は立ち止ってしまった。俺は敷石を離れて草の中に出た。肩を並べると、女も歩きだしたが、ぐんぐん俺の方へ体を押し寄せてくる。やがて女も、敷石を離れて、俺の方の草の中にはいってくる。女の体とコンクリート塀との間に俺は挾まれて、歩くことも出来ない。