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やのしのとい

矢押の樋

山本 周五郎

「キング」大日本雄辯會講談社、1941(昭和16)年3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,468 字 · 29 页

青空文庫

「唯今あがりました」

伊右衛門が退って暫くしてから、濠端へ残して置いた加兵衛が上って来た。

「どうした、分ったか」

「はい、……それが」加兵衛は四辺を憚るように云った、「矢押の梶之助どのでございました」

重太夫は水面に浮いていた先刻の顔をはっきり思出した。矢押梶之助とは、いま江戸に使している監物の弟である。

「なにか申しておったか」

「何処の流も干あがっているのに、お濠だけは満々と水がある、遊ばせて置くのは勿体ないから水練をしているのだと申しておりました」

「不届きなことを」

重太夫は烈しく眉を寄せたが、他言を禁じて加兵衛を退らせた。

矢押梶之助は二十五歳になる。兄の監物が明敏寡黙な老成人であるのに、彼は少年の頃から我の強い乱暴者で、兄弟の亡き父監物は口癖のように、梶之助は矢押一家の瘤だとさえ云っていた。……いま家中若手の者たちは、五ヵ所に設けてあるお救い小屋の仕事や、また田地へ水を呼ぶための井戸を掘ろうとして、連日の炎暑を冒して山野に働いている、それは多くの人手と、馴れないための非常な困難の伴う労働だった。けれど体力のある若者たちは競って困難に当り、農民たちの先に立って働いた。