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かぐらざか
神楽坂
矢田 津世子
「人民文庫」1936(昭和11)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页
一
夕飯をすませておいて、馬淵の爺さんは家を出た。いつもの用ありげなせかせかした足どりが通寺町の露路をぬけ出て神楽坂通りへかかる頃には大部のろくなっている。どうやらここいらへんまでくれば寛いだ気分が出てきて、これが家を出る時からの妙に気づまりな思いを少しずつ払いのけてくれる。爺さんは帯にさしこんであった扇子をとって片手で単衣の衿をちょいとつまんで歩きながら懐へ大きく風をいれている。こうすると衿元のゆるみで猫背のつん出た頸のあたりが全で抜きえもんでもしているようにみえる。肴町の電車通りを突っきって真っすぐに歩いて行く。爺さんの頭からはもう、こだわりが影をひそめている。何かしらゆったりとした余裕のある心もちである。灯がはいったばかりの明るい店並へ眼をやったり、顔馴染の尾沢の番頭へ会釈をくれたりする。それから行きあう人の顔を眺めて何んの気もなしにそのうしろ姿を振りかえってみたりする。毘沙門の前を通る時、爺さんは扇子の手を停めてちょっと頭をこごめた。そして袂へいれた手で懐中をさぐって財布をたしかめながら若宮町の横丁へと折れて行く。軒を並べた待合の中には今時小女が門口へ持ち出した火鉢の灰を篩うているのがある。