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かぐらざか
神楽坂
矢田 津世子
「人民文庫」1936(昭和11)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,611 字 · 40 页
この前まで来ると爺さんは何とはなしに心の緊張を覚えるのが常である。手に持った扇子を帯へさしこみ、衿元のゆるんだのを直したりする。それから懐へたたんで入れておいた手拭いで顔をひと撫ですることを忘れない、つまり、爺さんがためには虎丸撞球場のこの明い軒燈は脱いでおいたいつものお面をかぶる合図ともなっているのだ。小半丁ばかり歩いたところに家がある。格子を開けると、足の悪い女中の種が出迎えた。跛をひきひき爺さんのあとから跟いてきて、脱ぎすてた羽織や足袋の類を片付ける。爺さんはちょっとの間気嫌の悪い顔付きでむっつりと黙りこんでいる。よく仕事の上での訪問づかれで戻った時など爺さんはこんな顔をするのである。
「どうも、莫迦に蒸すねえ」
湯帷子に着換えた爺さんは団扇を使いながら内儀さんの病室にあてた奥の六畳へ入っていく。やすんでいるとばかり思った病人は床の上へ坐って薄暗い電球を低く下して針仕事をしている。
「お疲れさまでした」
針の手を休めて内儀さんが徐かに顔をあげた。爺さんが外から戻った時のいつもの挨拶である。ものを云うた拍子に咳こんで、袖口を口へあてたままでいる。