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ひでんのめいやく

秘伝の名訳

岸田 国士

――ボーマルシエ、辰野隆訳『フィガロの結婚』

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 1,125 字 · 3 页

青空文庫

時計工、宮廷音楽教師、新貴族、武器輸出業、水道事業の発案者そして、そのうえに劇作家を兼ねたピエール・カロン事ボーマルシエがその代表的な一人であり、そのボーマルシエの空想に浮んだ一英雄、伯爵お抱えの理髪師フイガロがまた、その典型の一ヴアリエーシヨンに外ならぬ。

この戯曲は、機智と雄弁と傍若無人な舞台技巧とをもつて、ロマン派演劇のはるかな先駆をなしたものであるが、同時にまた、その反逆精神と無頼性とによつて明らかに近代劇の源をなし、しかも、演劇を芸術と娯楽とのあやうい境界に立たした不敵大胆な作品である。

辰野隆氏は、学究としてもちろん既にその名は定まつているが、随筆家、座談家として、人々はそのひろい蘊蓄と豊かな才気と、更にその頼もしい人柄とに、親愛の拍手を送つている。「文は人なり」というけれども辰野氏のあの文体の調子と匂いは、「フイガロの結婚」の台詞ひとつひとつを鮮やかに生かし、それはまた、氏がこの作品に寄せるなみなみならぬ執着と興味とをうかがわせる表情ともなつている。

要するに、この「フイガロの結婚」こそは、パリにおいて、氏が親しくその舞台を見て感じた深い印象を、再び瞼に浮べ、耳に聴き入りながら、あたかも時あつて、この劇中の小唄を人前で口吟むように、氏は悠々、嬉々として翻訳の筆を進めたにちがいない。