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ちちぶのおもいで
秩父のおもいで
木暮 理太郎
「霧藻」1928(昭和3)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 3,234 字 · 7 页
私の山登りはいつもきまった一人旅であったから、其点からもこれは私に取って記念すべき旅であったと云える。途中栗坂峠の附近で野営し、翌日三頭山の登りにかかった頃から雨に降られて、鶴川の畔の原村に下った。杉木立に囲まれて鎮守の社がある。雲を吐く老杉の梢では四十雀が頻に囀り、清い谷川の水が其側をゆたかに流れ、朱色の躑躅の花が燃え上る炎のように木の下闇を照していた。昼食を炊いて貰おうとして、蚕で忙しい村人の素気ない挨拶に、暗い顔をしていた二人の心もこれで明るくなった。
雨でぬかる大羽根峠を越えて長作に出で、鶴川に沿うて溯ると、到る所の水崖に藤は紫の房を垂れ、卯の花は雪をこぼしている。鶴峠を上って白沢に下りる道の傍に新しい小学校があって、庭の八重桜は未だ花をつけていた。白沢のとある人家の高い杉の木を縫うて、白い藤の花が梢近くまで咲き続いていた美しさには、思わず足を止めて見恍れた。道はいつしか小菅川に沿うて水と共に下るようになる。両岸の山は春雨とまがう糸のように細い雨に煙って、墨絵のようにぼうと滲み出す、祠などがあると二、三株の松が墨痕鮮に描き出される。若い女の歌う声が何処かで聞えたと思う間もなく、思いも寄らぬ岨路から、手拭を冠った桑摘乙女の姿が現れて来る。