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ちごほうし

稚子法師

国枝 史郎

「文芸倶楽部」1924(大正13)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,609 字 · 16 页

青空文庫

一

木曽の代官山村蘇門は世に謳われた学者であったが八十二才の高齢を以て文政二年に世を終った。謙恭温容の君子であったので、妻子家臣の悲嘆は殆ど言語に絶したもので、征矢野孫兵衛、村上右門、知遇を受けた此両人などは、当時の国禁を窃に破って追腹を切った程である。

で、私の物語ろうとする『稚子法師』の怪異譚は即ち蘇門病歿の時を以て、先ず其端を発するのである。

不時のご用を仰せ付かって、信州高島諏訪因幡守の許へ、使者に立った萩原主水は、首尾よく主命も果たしたので、白馬に鞭打ち従者を連れ、木曽路を洗馬まで走らせて来た。

塩尻辺で日を暮らす、此処洗馬まで来た頃には文字通り真の闇であった。先に立った足健康の従者が高く振りかざす松火の光で、崎嶇たる山骨を僅に照らし、人馬物言わず真向きに走る。

「殿のお命に別状無い中どうぞ福島へ行きつきたいものだ」

この事ばかり懸命に念じ主水は益々馬側をしめ付け乗っ立って走らせるのであった。

主水は生年十八歳、元服の時は過ぎていたが、主君の命で前髪を尚艶々しく立てていた。主君と彼との関係は、家康に於ける伊井万千代、信長に対する森蘭丸と大方同じものであったが、蘇門が老年であった為め、竜陽の交わり分桃の契りは全然無かったと云われている。