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はこねのやま

箱根の山

田中 英光

「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页

青空文庫

と渡してやった。「アリガト」とポケットに突っ込んでいた右手を出し、始めは喜んで杖にして歩いていたが、やがて倦きてしまったと見え、「こんな小さな杖は厭だ。もっとあんなに大きいの」と生意気な事を言い、路傍の杉林の杉を指さす。

「あんなの、とても一郎に持てやしないよ」、「持てるよッ」、「きっとか」、「ウン」、「よオし」と私は少し腹を立て、きょろきょろ周囲を見廻したが、生憎、大きな丸太も転がっていないので、「よしよし、覚えていろよ。後できっと持たしてやるからな」と大人気もなく、含むように言い、一郎の手から竹の杖をひったくって投げ棄てると、小さな手をぐいと引っ立てるように歩き出した。

湯本駅のペンキ絵の箱根地図を思い出してみれば、湯本茶屋はとっくに過ぎたはず故、いま右下に聞える水声は、多分須雲川の渓流に違いない。どんなに長い路でも歩き続けていれば、いつか目標に近づいているはず。私たちは須雲川と言う部落に出る前の路傍に、レディ初花のファーザーである須雲新左衛門の邸跡と、英語で説明の書かれ、立ち腐れた標柱だけを見た。そして九十九折の山路を廻って行けば、いつしか、街道を挾んで、二、三十軒の家がばらばらに建ち並んだ、淋しい須雲川村に出た。