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うつくしいむら

美しい村

堀 辰雄

序曲「大阪朝日新聞」(「山からの手紙」の表題で。)1933(昭和8)年6月25日、美しい村「改造」1933(昭和8)年10月号、夏「文藝春秋」1933(昭和8)年10月号、暗い道「週刊朝日 第25巻第13号」1934(昭和9)年3月18日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 42,946 字 · 84 页

青空文庫

た。……気がついて見ると私のすぐ傍らにもあった野薔薇の木を、それが私の見たいと思っている野薔薇の木のほんのデッサンでしかないように見やりながら、私はそのままじっと佇んでいた。――やっとその人影は身を起し、蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから歩き出した。そうしてずんずん霧のなかに暈けて行った。

私も歩き出しながら、やっとその野薔薇の小さな茂みの前に達した。そうして今しがたその人のしていたような難しい姿勢を真似ながら、その上に身を跼めてみた。そうすればその人の心の状態までが見透かされでもするかのように。その小さな茂みはまだ硬い小さな莟を一ぱいにつけながら、何か私に訴えでもしたいような眼つきで私を見上げた。私は知らず識らずの裡にそれらの莟を根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている自分自身に気がついた。ふとさっきの人のしていた異様な手つきがまざまざと蘇った。そうしてその小さな茂みがマイ・ミクスチュアらしい香りを漂わせているのに気がついたのもそれと殆んど同時だった。湿った空気のために何時までもそのこんがらかった枝にからみついて消えずにいるその香りは、まるでその小さな茂みそのものから発せられているかのように思われた。